このコロナ禍で神戸中央図書館によく足を運んだ、という人も多かったかと思います。さて、図書館や文化ホール、散歩やランニングもできるふるさとの森、中央体育館まで含む「大倉山公園」についてご案内したいと思います。
この辺りは、もともと「広厳寺山」とか「安養寺山」と呼ばれていて、「大倉山」といれるようになるのは明治に入ってからのごとです。
ここに、謎の建造物があります。約9メートル四方で高さ4~5メートルの正方体にピラミッド状に石段が積まれている、立派な主のない台座です。
この台座の主は、伊藤博文でした。明治憲法を起草し初代内閣総理大臣を務め、また初代の兵庫県知事も務めた人ですから県民にとってもなじみ深い人です。最初の伊藤の銅像は、1904(明治37)年に湊川神社に設置されましたが、日露戦争後に日本がロシアと結んだ講和条約に怒った民衆が像を倒してしまいました。
しかし、伊藤が1909(明治42)年にハルビンで反日派の韓国の青年に暗殺されると、また銅像再建の話が持ち上がります。
それは、明治の動乱期に御用商人として活躍し一代で財を成した実業家、大倉喜八郎によるものでした。
長らく伊藤と交流があり、こよなく尊敬もしていた伊藤が、気に入っていた大倉山の地に立派な台座を造り、銅像を建てるので、伊藤の功績を顕彰するための公園として市民に開放してほしい、と「大倉山公園」が開園したのは、1911(明治44)年のことでした。
しかし太平洋戦争で金属供出が求められて、また伊藤像はなくなり、その後は再建されることなく見上げるような台座だけが残りました。
居留地にも「伊藤町」としてその名前が残されています。
が、69歳でなくなるまでの伊藤博文の波乱な人生を象徴しているかのような、巨大な「台座」です。
また、時代の激動期に固く結ばれた、実業家大倉喜八郎と、政治家伊藤博文の絆の証だった「大倉山公園」、ゆっくりと散策してみてください。